エンパスを救い出すのは誰?
- yu ichinose
- Jul 29
- 4 min read

ネグレドの果てに、生まれてくるもの
エンパスの苦しみについて語られるとき、多くはその「他者のネガティブな感情に飲み込まれてしまう」という一面に光が当たっているように感じます。共感力は、まるで守らなければならない弱さであるかのように語られることが多いのかもしれません。
けれど、本当にそれだけなのだろうか、と私は思います。
私自身の感覚では、この共感という回路は、他者のネガティブな感情だけを運んでくるわけではないと感じています。他者の悲しみや痛みが強く流れ込んでくるように、他者の歓びや、至福と呼べるようなものもまた、同じ強さで、同じ場所を通って私のなかに流れ込んで来ます。
共感と共鳴は繋がっているのでしょうか?
自然の美しさに共鳴する時、エンパスが得るその至福は強烈です。また、土地やそこに流れる川、吹く風、空間の持つ歴史的なイベントで刻まれた記憶のようなものが、エンパスを苦しめることもあります。自然や空間から受け取る至福や苦しみは、人間のようなエゴを持たないピュアなエネルギーそのものだからでしょうか、それへの共鳴はより強く増幅されるようです。
トマス・トレイハーンの言葉があります。
The green trees when I saw them first…transported and ravished me, their sweetness and unusual beauty made my heart to leap and almost mad with ecstasy…
「初めて見た緑の木々は……私を運び去り、恍惚とさせた。その甘美さと類いまれな美しさは、私の心を跳ねさせ、狂おしいほどの法悦に至らせた」
彼はこうした感覚を、幼い頃の特別な視界として語っていたかもしれません。大人になるにつれて、私たちはこの感覚をどこかに置き忘れてしまうのだ、と。でも中には、この感覚が失われずに、ずっと持ち続けている人たちもいることでしょう。
そしてもう一つ、うまく言葉にできずにいたことがあります。それは、ナルシシストとの関係を通り抜けたときのことです。もし錬金術の言葉を借りるなら、あれはニグレド――黒く、腐り、崩れていく段階――と呼べるものでした。
けれど、不思議なのは、その先にあったものです。
ネグレドから立ち上がった時、単なる回復や、平穏という言葉では言い表せない、何かに下から突き上げられた感覚がありました。うまく説明できないのですが、あの苦しみを通り抜けた先で、私が出会ったのは、自分自身への愛でした。更には、私という存在が愛だという確信でした。
ネグレドを経るまでは、エンパスという生き方において、他者を無条件に愛することは、ある意味では本能のような、義務感のようなものだったように思います。求められなくても、傷つけられても、それでも誰かを愛したい。ある意味、強迫観念に近いのでしょうか?そうやって、ずっと他者を愛そうとしてきました。一度好きになった人を嫌いになることは、私には一生できないという感覚がありました。
でも、自分自身を、同じように愛したことは、それまで一度もなかったのかもしれません。
あの苦しみを通り抜けた先で出会ったのは、自分自身への、初めての、そして完全な強烈な愛でした。自分を強烈に愛おしいと思い、そして、私という存在そのものが、愛そのものであるような感覚でした。私は愛を持っている、のではなく、私は愛である――そんなふうに感じたのです。
助けに来てくれない神や仏を恨んだ時、助けに来たのは、私自身の愛でした。ずっと私自身には向けられなかった共感と共鳴が、至福の愛を抱えて、私を助けに来たのです。
エンパスの個性化とは、他者を愛する力を新たに得ることではないのかもしれません。すでに持っていたその力を、ようやく自分自身にも、同じ強さで向けられるようになること。自分の全てを受け入れ、自分の矛盾さえも愛すると覚悟する、それこそが、エンパスにとっての個性化の、本当のかたちなのかもしれない、と今は感じています。
ウォルト・ホイットマンは、こんな一節を残しています。
Do I contradict myself? Very well then I contradict myself,
(I am large, I contain multitudes.)
「私は矛盾しているだろうか? / よろしい、それなら矛盾しよう / (私は大きい、私は無数を内包している)」
このニグレドの果てに生まれてくるもの――それこそが、私が『一元世界(ウヌス・ムンドゥス)の夜明け』で、書きたかったことなのだと思います。感受性の強い人や、他者を優先する心優しい人や、家族のために少しずつ自分を犠牲にする人、人の機嫌を無意識に取ってあげている人、そしてエンパスと呼ばれる人たちは、この社会で生きづらさを抱えて苦しんでいる事に焦点が当てられがちです。けれども彼ら彼女らが、これから来るAIの時代に大切な存在になりうるのだとしたら、それは他者の痛みに共感し共鳴できる力だけによるものではないのかもしれません。その根底にあるのは、自分自身を完全に愛せるようになった存在が放つ静かな、しかし強烈な光のようなものなのかもしれない、と感じています。



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