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毒親を諦めて自分を救う

Writer: yu ichinose
yu ichinose
Oct 4
11 min read

Updated: Oct 9

           

一ノ瀬 ゆう


※note.com に投稿した記事【毒親からの自立:親への期待を捨てる方法】を対話形式にしてみました。



私たちは普段、希望を持つこととか、他者に期待することを無条件に素晴らしいことだと教わりますよね。


ええ、そうですね。美徳とされていますよね。


どんなに困難な状況でも希望を捨てちゃいけないとか、相手を信じ続ければいつか心は通じ合うとか。でもそれが、まるでずっと飲み続ける猛毒だとしたらどうでしょうか?


今日私たちが話し合うのは、ナルシシストの親を持つ子どもの自立に関する非常に興味深い資料を基にしています。その支配から抜け出す方法についてです。


はい、とても重要なテーマですね。


今日の話は、「親が変わるかもしれない」という期待を完全に捨てること、それがなぜ冷酷な行為などではなくて、真の自立と自己を取り戻すための必須プロセスとなるのかを解き明かすことです。

期待してポジティブな結果を待つことが、実は致命的なダメージを生む領域がある、ということなんですよね。


まさにその通りなんです。私たちが、通常の人間関係で無意識に使っている「歩み寄れば理解し合える」という法則が全く通用しない領域が存在するんですよ。

 

全く通用しない、、、ですか?


はい。

今回取り上げるのは、自己愛性パーソナリティ障害、いわゆるナルシストの傾向の人とか、反社会性パーソナリティ障害、つまりサイコパスの傾向を持つ、いわゆる毒親と呼ばれる存在です。


なるほど。


なぜ私たちはどれほど深く傷つけられても、親に対して「いつかはわかってくれるんじゃないか」って期待し続けてしまうのか、その答えはですね、私たちが根本的な大前提を間違えているからなんです。「不機嫌なだけなんだ」とか「不器用なだけで育て方が下手なだけだ」とか、何とかそう言って思い込もうとするんです。

でも現実は全く違います。

パーソナリティの構造そのものが根本的に異なるんですよ。


つまりこれって、一時的なソフトウェアのバグみたいな、単なる機嫌や育て方の問題じゃないってことですよね。

ハードウェア自体の構造が全く違うということですよね。

資料にもありましたけど、魚に、どうして木に登れないんだって怒っているのと同じくらい、物理的に無理な要求をしているということになるんだなって。


そう、そこなんです。ハードウェアが違うということは、世界の見え方が全く違うということなんですよ。


世界の見え方が、、、。


はい。

彼らにとっての子どもという存在は、私たちが考えるような、愛して育む対象としての一人の独立した人間ではないんですよ。


じゃ、何だと思っているんでしょうか?


自分の肥大化した自尊心を満たすための便利な道具とか、思い通りに動かすための操り人形、あるいは日常のストレスをぶつけるための発散先ですね。


なるほど、、、。


つまり、トロフィーかサンドバッグでしかないんですよ。


トロフィーかサンドバッグ。

うーん、それは、あまりにも残酷な現実ですね。

でも、ここでちょっと反論させてもらっていいですか?

もし彼らが本当にエンパシー(共感)を持っていなくて、ハードウェアが全く違うのだとしたら、なぜ彼らは時々、こちらが泣きたくなるほど優しい言葉をかけてきたりするんですか?

絶妙なタイミングで欲しかったプレゼントを持ってきたりとか。


ええ、ありますよね。


それって、相手の気持ちが分かっている、つまり共感性があるってことじゃないんでしょうか?


それはですね、非常に鋭くて、重要な指摘です。

実はそこが一番の罠なんですよ。

あなたが今おっしゃったのは、感情的共感ではなくて、認知的共感と呼ばれるものなんです。


認知的共感ですか、、、。あ、感情とは違うと。


はい、彼らは相手がどう感じているかを、心から思いやって共に痛む、そういう感情的共感は欠落しています。でも相手が何を考えて、どうすれば喜ぶか、あるいは、どうすれば最も傷つくかを頭で理解する能力は非常に高いのです。


はー、それはもうぞっとしますねー、ホントに。


そうなんですよ。

つまり彼らは、子どもを心から愛しているから優しい言葉をかけるんじゃなくて、子どもの感情のシステムをハッキングして、再び自分の支配下に置くためのパスワードとして、その優しさを使っているだけなんです。


コントロールするためのパスワード。

相手の思考回路は理解しているけど、感情は伴っていないわけですね。だからこそピンポイントで一番響く行動がとれてしまうと。


ええ。まさにそれがハードウェアの違いです。


でもそうだとしたらですよ、頭で構造が違うと分かっても、人間の感情ってどうしても「いつかは変わってくれるかも」って期待しちゃうじゃないですか。

なぜ私たちはそのハッキングに何度も引っかかってしまうんでしょうか?


それはですね、彼らの行動パターンが非常に巧妙に繰り返されるからなんです。そのパターンには、驚くほど一貫して明確なサイクルがあるんです。


サイクル、、、。決まったパターンがあるってことですね。


はい。

まず第一のフェーズとして、急に優しくなったり哀れみを誘ったりする「ラブボミング」って呼ばれる期間が来ます。「愛の爆弾」ですね。急にこの世で最も理解のある完璧な親を演じるんです。


そこで子どもは油断しちゃうわけですね。

あー、遂に私の気持ちが通じたんだ。ソフトウェアのアップデートが成功したんだ。

脳内でドーパミンが出ちゃうんでしょうね。


そう、その通りです。

でも、それは相手の防御を解くための甘い罠にすぎません。

子どもが完全に心を開いて安心した瞬間に第二のフェーズが発動します。


第二のフェーズ。


手のひらを返したような理不尽な攻撃と徹底的な支配です。

さっきまで優しかった親が、突然牙をむくんです。


そして第三のフェーズで「お前が悪い」って罪悪感を植え付けるんですよね。

「お前が私を怒らせたんだ」って。


ええ。この甘い罠、そして攻撃、罪悪感の植え付けっていうサイクルを、彼らは息を吐くように永遠に繰り返します。

だからこのループから抜け出すためには、感情で受け止めるんじゃだめなんですよ。



と言いますと?


被害者自身がまるで科学者のような冷徹な目を持つことが不可欠なんです。


科学者のような目。あっ、つまり自分の辛い過去を、まるで化学反応の実験を観察するかのように、データとかファクトとして扱うべきだと言うことですか?


まさにそれです。

いつ優しくされて、いつ攻撃されたか、紙に書き出したり録音したりして、データとして認識するんです。そうすると自分が何度も同じ罠にかかっていただけだということが可視化されます。


何度もエラーを起こすパソコンの前で、次は動くかもって祈るのをやめて、システムのログを確認する作業に似てますね。ログをみれば、あ、このハードウェアは定期的に暴走するようにプログラムされてるんだって事実として証明できる。


その例え、すごく分かりやすいですね。

過去何十年と歩み寄っても、1ミリも改善しなかったという実績。つまり、ファクトを自分自身に突き付ける。そのデータから導き出される結論は、確率的に一つしかありません。

今後も変わる可能性はゼロ%である、という計算を自分の中で完了させることです。


ゼロ%、口にしてしまうと、逃げ場がないですね。

ただ改善確率がゼロ%だと計算して、完全に期待を捨てるっていうのは、論理的には絶対に正しいと分かります。

でも私がもし当事者だとして、確率がゼロ%だという結論を受け入れることは、同時にとてつもなく残酷な現実と向き合うことになりますよね。


おっしゃる通りです。

ここからが、期待を捨てるプロセスの中で最も苦しくて、しかし最も重要なグリーフワーク、哀悼の作業になります。


哀悼。

誰かが亡くなった時に悼む、あの心の作業ですか?



はい、期待を捨てる過程で直面しなければならないのは、「自分にはまともな親も温かい家庭も、最初から存在しなかったんだ」という絶望なんです。

これを受け入れることなんですよ。


うーん、これを読んでくださっているあなたも、同じように感じるかもしれませんが、目の前で生きている人間に対して、「死を悼むプロセス」を行うというのはものすごくヘビーで矛盾した作業に感じますよね。


ええ、本当に辛い作業です。


だって、親は生きているわけで、一緒に住んでいるかもしれないし、別居してても電話もかかってくるかもしれない。交流してるわけですよね。生きている親に対して、死んだものとして哀悼するなんて、どうやって感情を処理すればいいんでしょう?


これをさらに大きな視点に結びつけて考えてみると、悼んでいるのは物理的な肉体の死ではないんです。

「自分の欲しかった理想の親の死」を受け入れる、ということなんですよ。


「理想の親の死」


「いつか私を愛してくれるはずの親」「いつか手に入るはずだった普通の家庭」その幻想が死んだのだと受け入れるのです。

怒りや憎しみの奥底にある「ただ愛されたかった」という悲しみがありますから。


その悲しみをしっかりと味わって、泣き切らなきゃいけないんですね。

でもなぜそこまでして、悲しむ必要があるんですか?


なぜなら、悲しみを避けて通ろうとするから、私たちは「親を改心させる役割」という終わりのない船から降りられなくなるからです。

「自分がもっといい子になれば、親をまともな人間にできる」んじゃないかという。


ああ、、。あの無意識の救済者願望ですね。

ヤングケアラー的な心理というか。


そうです。

子どもにとって、親が根本的に壊れていると認めるのは、恐怖ですからね。

だから、私が頑張れば変わるかもって信じることで、コントロール感を得ようとするんです。

でも、理想の親の死を悼んで、悲しみを完了させて初めて、課題の分離ができるようになります。


課題の分離。

親の課題と自分の課題を切り離すということですね?


ええ、そうです。


終わりのない船から降りる。

でもここでひとつ疑問が浮かぶんです。

もし期待を捨てて船から降りようとしても、でもそもそも毒親が作り出す環境って、歪んだカルト空間みたいなものですよね。

その中にいて、一人で脱出することなんて、可能なんですか?


いや、一人で、しかもその空間の中にいたままでは不可能です。

毒親が支配する家庭は、外の社会の常識が一切通用しないカルト空間そのものですから。


やっぱりそうなんですね。


だからこそ外部との接点が絶対的な生命線になります。

健全な友人関係とか、パートナーとか、信頼できる大人、あるいは心理学の本でもいいです。


外部の健全な基準を知る必要があると。

うん、「間違えたらあやまる」とか「境界線が尊重される」とか。

そういう新しい常識。ニューノーマルを知るってことですね。


まさにそれです。

人間て、比較対象がなければ、自分の環境の異常さに気づけませんから。

外の世界と比較して初めて、自分が受けていたのがしつけや愛なんかじゃなく、単なる虐待とか精神的暴力だったんだって客観視できます。


比較して初めて、自分がカルトの中にいたことに気付く。

つまりこれらはすべて何を意味しているんでしょうか?

ここまでの話を総括すると、「親に期待を持ち続ける」というのは、例えるなら、自分の人生の運転席のハンドルを、わざと壁に激突させようとする相手に渡し続けるようなものですよね。


ええ、本当にその通りです。


期待するたびに裏切られて、エネルギーを奪われて、自分のキャリアやメンタルを破壊される。

つまり、期待すること自体が希望なんかじゃなくて、自ら毒を飲むような自傷行為だと。

この視点は強烈ですね。


まさに、生存本能としての危機感を持つべきなんです。

そう、親に期待を持つことは、相手に自分の感情の鍵を渡すことですから。


なるほど。


「私はもう二度と期待という毒を飲まないんだ」と決意することが、被害者を生存へと導く最大の防衛線になります。

相手が変わるのを待つんじゃなくて、自分がシステムからログアウトするんです。


自分がログアウトする。

日本の言葉には、このプロセスを美しく表現する言葉がありますよね。

「諦める(あきらめる)」という言葉の語源についてです。

「諦める」ってもともと「あからめる」で、事情や事実を明らかにするという意味から来ているそうですね。


非常に深いです。

ハードウェアの構造の違いという事実をあきらめる。

親が変わらないという冷酷な事実を完全にあきらめる。

諦めた瞬間、子どもは初めて親を変えるための不毛な努力から解放されるんです。


だからこそ、期待を捨てることっていうのは、負けでも冷酷なことでもなくて、自分自身の尊厳と人生を守るための最大の自己防衛であり、自分への愛なんですね。


はい、本当にそうだと思います。


相手の構造を理解して、ファクトを直視し、課題を分離するっていう思考のプロセスは、今後親だけじゃなくて、職場とか友人関係における他の有害な人間関係にも応用できますよね。


そうですね、あらゆる場面で身を守る盾になります。


もしあなたが、決して変わらない過去や他者を、どうにか修理しようと注ぎ込んできた莫大なエネルギーを、全て自分自身の未来を構築するためだけに使ったとしたら、あなたの人生には一体どんな素晴らしいものが出来上がるでしょうか?








 
 
 

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